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「ラプソディー・イン・ブルー」を聴く2・・・作曲の経過とその初演
今回は、「ラプソディー・イン・ブルー」の作曲の経過と初演の様子です。

ガーシュインが活躍していた20年代は、シカゴでは、禁酒法下、アル・カポネに代表されるギャングが跳梁し、ニューヨークではベーブ・ルースが活躍していた、アメリカがまさに繁栄の絶頂にあった時代です。
音楽では、黒人の音楽からアメリカの国民的な音楽に変化していったラグタイムとブルースという異なった性格の二つの音楽が、お互いに発展しながらジャズという形で結びついていった時代でもありました。(一部異論もあるようですが)
ジャズという言葉が初めて登場したのは、1913年のサンフランシスコ新報紙上のことです。このジャズという言葉の語源はいまだに定説がありませんが、黒人たちの故郷アフリカ起源を持つ言葉だとも言われています。

ティンパンアレイのピアニストとして活躍していた1910年代のガーシュイン弾く曲の多くは、当時全盛となっていた黒人音楽のラグタイムでした。
スコット・ジョプリンに代表されるラグタイム。
この19世紀末に誕生した独特のシンコペーションを持つピアノ音楽が、1910年代のデキシーランドジャズに大きな影響を与え、ジャズというジャンルは20年代のシンフォニック・ジャズ、30年代のスゥング、40年代のビパップ、50年代のクール、60年代のフリー・ジャズといった具合に大きく変貌していきます。

この繁栄の20年代にバンドを組織し、自ら「ジャズ王」と名乗っていた人物がいました。その名はポール・ホワイトマン。
クラシック音楽の教育を受け、ヴィオラ奏者としてデンバー交響楽団とサンフランシスコ交響楽団にも在籍したことのあるホワイトマンは、非常な酒好きで、頻繁に出入りしていたダンスホールで触れたジャズに次第に興味を持ち始めます。やがてジャズプレーヤーの週給がクラシックのプレーヤーよりもはるかに高額だということを知ったホワイトマンは、ジャズプレーヤーとして演奏活動を始めました。

当時は初期のデキシーランドジャズの時代で、アレンジも未熟でプレーヤーがそれぞれ自由な即興をつけている様子を見て、クラシック畑出身のホワイトマンは、自らバンドを組織し、しっかりとした編曲の楽譜を作製しアンサンブルの精度を高め、譜面に忠実な、いわばクラシック風のスタイルの演奏を始めました。
それが当時の白人層に受け、ホワイトマンのバンドは当時のアメリカで有数のジャズバンドとして認められることになりました。
中でも1920年に録音した「ジャパニーズ・サンドマン」という曲は250万枚のセールスを記録したそうです。
ホワイトマンのバンドが当たった理由としては、楽団専属のアレンジャーだったグローフェの存在も大きかったようです。彼も元はロスアンジェルスフィルのヴィオラ弾きで、
サキソフォンも吹けました。

19世紀のクラシック音楽のテクニックを使えば、ジャズがより高度で芸術的なものになると信じていたホワイトマンは、1924年2月に「アメリカ音楽とは何か」という実験的なコンサートを計画しました。内容は、当時流行していたジャズやポピュラーソング、ミュージカルナンバーからクラシックまでを演奏し、真のアメリカ音楽とは何かを審査員に選ばせるといったユニークなものでした。

このコンサートに先立つ1ケ月前、このホワイトマンのコンサートのためにガーシュインが新たに「ピアノ協奏曲」を作曲中という新聞広告が、ガーシュイン本人が知らぬままに出てしまいます。そのような約束をした覚えのないガーシュインでしたが、結局ホワイトマンに押し切られて作曲をするはめになってしまいました。

なにせ正規の音楽教育を受けたのが14歳からで、オーケストラの作曲などの経験がないガーシュインは途方にくれるばかりでしたが、楽想の迸るままとにかく三週間で2台のピアノのための形で草稿を書き上げます。
これを1ページ出来あがる端から、ガーシュインの家に泊り込みの状態だったグローフェがオーケストレーションを進めるといった、かなり慌しい形となりました。

当初協奏曲という形式に縛られるのを嫌ったガーシュインは、「アメリカンラプソディー」という曲名を考えていましたが、兄のアイラの提案を受けて「ラプソディー・イン・ブルー」と名づけました。

演奏会当日は、ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、スーザといった歴史上の大作曲家やハイフェッツ、ストコフスキーといった一流の演奏家たちが顔を揃えるといった大変な盛況となりましたが、演奏曲目が実に24曲と膨大なうえに曲目も変化に欠けていたために聴衆はかなりの苦痛を強いられていたようです。居眠りや途中で帰る客も目立ち始め、聴衆の苦痛が限界に達しようとした時に、最後から2番目の曲「ラプソディー・イン・ブルー」が演奏されました。(トリはエルガーの威風堂々)

この時の成功の模様はあまりにも有名ですが、とにかく完全に失敗に終わりそうなホワイトマンの実験的なコンサートは、ガーシュインの1曲のために歴史的なコンサートとなり
4月には全く同じプログラムで、カーネギーホールでも開かれました。
1924年だけでホワイトマンバンドは、「ラプソディー・イン・ブルー」を84回演奏したとの記録が残っています。
(2003.12.29)
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