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「ラプソディー・イン・ブルー」を聴く1・・・・Introduction
ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」を演奏することになりました。
これからいくつかの演奏の聴き比べをしていきたいと思います。

まず第一回は、作曲家ガーシュウィンの紹介とその時代背景です。

ジョージ・ガーシュインは、ロシア系ユダヤ人移民の子として1898年ニューヨークのブルックリン郊外に生まれました。兄弟は4人、ジョージは2番目で兄のアイラは後に作詞家としてジョージと組み、「ポーギとベス」の詞を書くことになります。
父はロシアでは靴飾りのデザイナーでしたが、1890年に兵役から逃れるためにアメリカに亡命し、移住後はさまざまな職を転々としたようです。
子供の頃のジョージは、腕白で不良少年のリーダー格として父親が見放すほどでした。
両親は音楽の素養は全くありませんでしたが、ジョージは不思議と音楽好きの友人に恵まれ、友人の家のピアノを弾いたりしているうちに自然に音楽に関心が向くようになってきました。
14歳の時、母親が兄のアイラのためにピアノを買い与えると、ジョージは直ちに当時の流行歌を弾きはじめたそうです。その後何人かのピアノ教師の教えを受けましたが、ハンガリー出身のハムビツァーという教師から、ジョージが後に作曲家とピアニストとして活躍していく上での基本的なテクニックと芸術的なセンスの多くを学びました。
ハムビツァーはその作品がニューヨークフィルの演奏会でも取り上げられるほどの音楽家でしたが、ジョージの才能に驚いた彼は、和声学や作曲法をジョージに学ばせるために、より高名な教師を紹介したりしています。

やがて15歳になったジョージは、楽譜屋や出版社が軒を連ねていたティンパンアレイ(
ブリキ鍋小路)のリミック社の専属ピアニストとして、出版されたばかりの新曲のデモ演奏を、店を訪れるプロやアマチュア音楽家たちに聞かせることになります。

ラジオやレコードもない20世紀初頭のアメリカでは、音楽は聞くよりも弾いて楽しむものでした。ヒット曲が出版されると、音楽好きの人々は争って楽譜屋に足を運び家でピアノを弾いて楽しみました。そのような人々のためにジョージは、1日中ピアノを弾きつづけました。このいわば修行時代に出会ったラグタイムやブルース、ブロードウエイのミュージカルなどの音楽が、後のガーシュインの作曲スタイルに大きな影響を与えました。

やがてティンパンアレイで新曲を弾いているうちに、自分もラグタイム風のピアノ曲や流行歌を作曲していくようになり、1917年にリミック社を辞めた後にはフリーとして、劇場用の曲を書き始め、コンスタントなヒットを飛ばしていきます。やがて1919年の「スワニー」の大ヒットで、ブロードウエイの作曲家として認められることになります。
(2003.12.28)
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