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今回から始まる「悲愴を聴く」。 これから、この有名曲の様々な演奏を、できるかぎり紹介していきます。 作曲の経緯や曲の解説については、既に語り尽くされているので、ここでは特に取り上げませんが、第1回は、ロシアの代表的な交響曲作家としてのチャイコフスキーと、「悲愴」について私が感じていることの、寝言のようなとりとめのない話です。 チャイコフスキーは、オペラ、交響曲の分野に名高い傑作を残しましたが、交響曲は未完の曲を含めて以下の8曲があります。( )は作曲年。 ・第1番「冬の日の幻想」 (1866年 1874年改訂) ・第2番「小ロシア」 (1872年 1879年改訂) ・第3番「ポーランド」 (1875年) ・第4番 (1877年) ・マンフレッド交響曲 (1885年) ・第5番 (1888年) ・交響曲変ホ長調 (1892年 未完) ・第6番「悲愴」 (1893年) これらの中で第5番までの番号付きの曲は、ソナタ形式を土台とし、楽章構成もほぼベートーヴェンによって完成された純正な古典派交響曲を受け継いだものです。しかしバイロンの劇詩「マンフレッド」に基く「マンフレッド交響曲」は、ベルリオーズの幻想交響曲に代表されるような、「標題交響曲」の流れを汲むものとして注目されます。 変ホ長調の未完の交響曲は、のちに第1楽章がピアノ協奏曲第3番に転用されましたが、 結局このピアノ協奏曲も作曲者の死によって未完となってしまいました。後に弟子のタネーエフが残されたスケッチを基に完成しています。この未完の交響曲を1950年にロシアの作曲家ボガチレフが4楽章の交響曲第7番として完成させ、オーマンディやヤルヴィらの録音もあります。 これらの交響曲は、今日演奏される頻度からいえば4番以降の番号のついた3曲が圧倒的に多いのですが、第1番の瑞々しさは、なかなか新鮮な魅力が感じられます。 ところで何かと謎の多い「悲愴」。チャイコフスキー自身は、この交響曲を「標題交響曲」と呼んでいました。したがって、ドイツオーストリア系の古典的な交響曲の楽章構成から逸脱し、終楽章がアダージョ楽章となっているのも何となく頷けます。 しかし、今日アダージョ・ラメントーソとして演奏される第4楽章は、自筆譜によると、アンダンテ・ラメントーソとなっていて、後に上からアダージョと訂正されているのだそうです。しかも訂正したのは作曲者ではなく、作曲者の死後再演を指揮したナブラブニク。 また「悲愴」というタイトルは、チャイコフスキーの指揮による初演の直後に、弟のモデストの提案を作曲者が採用したものです。しかしこの日本語訳が誰によるものかは判りませんが、原語であるロシア語の「パテティースカヤ」は、情熱的とか激情といった意味の言葉で、悲劇的なニュアンスはないのだそうです。 そして「悲愴」初演後9日後のチャイコフスキーの突然の死。 公式には、初演直後に飲んだ生水が原因でコレラに罹り死亡したとされていましたが、残された手紙や数々の証言から、強要された自殺というかなりショッキングな説が現れています。 この作曲者の突然の死によって多くの謎が残されてしまいました。終楽章については、チャイコフスキー自身の改訂を示唆する証言も残されていて、結局、曲の意味や解釈の本質が作曲者の意図したものから離れ、一人歩きしてしまって今日に至ったのではないかと思います。
(2003.01.25)
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