今回は、指揮者エードリアン・ボールトが語る「惑星」の初演の様子と、ホルスト自作自演の紹介です。
「惑星」は、全曲初演後の翌年には出版が実現、さらに23年には初録音といった具合で、当時のイギリス音楽界の中でこの作品は、比較的順調に世に受け入れられていったように思います。当時の録音という行為が極めて有名な名演奏家や古今の名曲に限られていた時代の中で、初演されたばかりの現代音楽が録音される(しかも二回も!)、というのは実に驚くべきことです。さらに、1924年には“火星"と“木星"が吹奏楽にも編曲され、“木星"の中間部分の旋律には歌詞がつけられ賛美歌として歌われたことにより、イギリスの聴衆の中に確実にこの作品が浸透していったことが想像されます。
カナダ放送協会が制作したラジオ番組からまとめられた「Conversations with conductors」(Robert Chesterman著)という本があります。
この中の指揮者のエードリアン・ボールトの章には、ボールトが語った、ホルストと「惑星」の初演にまつわる興味深い話が語られています。
ボールトによれば、ホルスト自身はただ書きたい一心からこの作品を書き、演奏されることなど、全く頭に入れていなかったそうです。
1918年の私的な初演は、ホルストが軍隊の慰問にサロニカ(ギリシャ)に行く際の餞別として、ガーディナーが日曜日の午前中にクイーンズホールとクイーンズホール管弦楽団を提供したことによって実現しました。当日の会場は、ホルストの友人と、この日の演奏のためにパート譜のコピーを手伝ったセントポール女学校の生徒たち、そしてセントポール女学校の卒業生で1階と2階の桟敷席はいっぱいとなりました。演奏は、10時から11時45分までを練習に費やし、12時から全曲を通すといった形で進められました。いわば公開リハーサルのような形式だったようです。演奏の準備から本番まで、一貫してボールトが指揮をおこないました。
クイーンズホール管弦楽団は優秀な楽団員が揃っていましたが、ほとんど初見の状態だったために、かなり悪戦苦闘したようです。"海王星"の女声合唱はセントポール女学校の生徒が受け持ち、出番までは客席の最前列で待機し、出番になると出口に向かって歩きながら歌い、最後に
扉を閉めて去るといった演出でした。
ボールトは後に「惑星」を実に五回録音しましたが、その第一歩がこの1918年の試演だったわけです。
一方、ホルスト自らも「惑星」を2度録音しています。
第一回目は1923年で、当時はマイクを用いた電気録音以前の時期で、楽器編成も極端に削減され、大きなメガホン状の収録用のラッパ録音器に、楽器を突っ込んだ形で演奏されたそうです。コントラバスは使用されず、低音部はバスチューバのみ、ホルン奏者はベルを録音器に向けるために後ろ向きに座り、鏡を見ながら演奏したのだそうです。
2回目はマイクロフォンが開発された直後の1926年録音、この演奏は聞く事ができました。
・ロンドン交響楽団
(1926年 6月22日から11月22日)
演奏は、早いテンポの力強い推進力満ちた奥深い名演。録音も1926年という年代を考えれば優秀な録音だと思います。誰よりも早いテンポをとる「火星」「木星」を聞くと、この曲がオーケストラの高度な名技性を要求した曲だということが実によくわかります。
整然と無表情ともいえる精確さで突き進む「火星」はぞっとする冷たさを感じさせ、コントラバスの雄弁さが光る「土星」とともにこの演奏中もっとも印象深い部分でした。さらりと流した「木星」は、最後の終結部分で絶妙のテンポ運びを見せます。
「金星」冒頭アダージョはほとんどアンダンテで、中間部分はさらに早くなります。これはポルタメントを多用した中間部分とともに、現代のいろいろな「惑星」を聴いた耳には違和感を感じさせるものがありますが、このテンポは当時の録音上の制約があったためなのかもしれません。
なお「木星」の後半部分には、通常の録音では聞かれないチェレスタの響きが聞こえます。後にホルスト自らが削除したのでしょうか。
(2002.07.31) |