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「ローマの松」を聴く4 イタリアの指揮者2・・・デ・サーバタとカンテルリ
ヴィクトル・デ・サーバタ(1892~1967)
イタリア、トリエステ生まれの巨匠。1910年からモンテカルロ歌劇場の指揮者、
ラヴェルの「子供と魔法」初演、1930からスカラ座の芸術監督、1953年に病に倒れ1957年引退。しかし後継者となる予定であったカンテルリの急逝のため1967年までスカラ座の音楽顧問。早くに引退したため録音は少ないですがトスカニーニに匹敵する偉大な指揮者でした。

・ ニューヨークフィルハーモニック
(1950年3月12日   ライヴ録音)
大きな広がりの有る音の歴史絵巻、まるで壮大な情景が目の前に展開するかのような幻想的で雄大な名演。「カタコンブの松」の奥深い寂寥感、「ジャニコロの松」では、美しく澄みきった大気が漂うような気配を感じさせ、「アッピア街道の松」は、多くの指揮者が次第にテンポを早める中で、段階的にテンポを落としながら次第に目の前に壮大華麗な情景を描き出すといった見事なもの。このテンポ設定は実に大きな効果を上げていて、霧が立ち込める中、遥か彼方から次第に近づいてくるローマ軍兵士の足音の様子が、これほどまでに、実体感を持って迫ってくる演奏はありませんでした。
なおブッチーナはトランペットとトロンボーンを使用。


グイド・カンテルリ(1920~1956)
長命であればカラヤンやバーンスタインと並ぶ20世紀を代表する巨匠となったであろうカンテルリは、イタリアのナヴァラに軍楽隊長の息子として生まれ、14才でピアニストとしてデビューしました。第2次世界大戦で召集されますが、ドイツ軍と一緒に戦うことを拒否し収容所送りました。その後脱走に成功し、レジスタンスに身を投じながら偽名で演奏活動を続けました。戦後はトスカニーニに認められ、スカラ座やNBC交響楽団、ニューヨークフィルに登場。イギリスのフィルハーモニア管とも定期的にレコーディングを開始し、1953年にはザルツブルク音楽祭にも出演し、カラヤンと並ぶ名声を得ました。
1957年からデ・サーバタの後任としてスカラ座の音楽監督に就任することが発表された8日後に、パリで飛行機事故のため36年の生涯を閉じてしまいました。
カンテルリは1949年からEMIに定期的にレコーディングをおこない、アメリカでの
ライヴ録音も体系的にCD化されていました。これらはどの演奏も豊かな才能を証明する素晴らしい出来です。「ローマの松」は、ボストン響とのライヴ録音が残されました。

・ ボストン交響楽団
(1954年 12月24日  ライヴ録音)

オケの響きが一つの大きな塊となって燃え上がった白熱の演奏。
生きの良い早いテンポで眩しいほど色彩豊かな「ボルゲーゼ荘の松」では、あまりの早いテンポにオーボエが半拍飛び出してしまうといったアクシデントはありますが、若々しさの溢れた爽やかさと無邪気さまで感じさせました。トランペットソロが抜群のうまさを見せる「カタコンブの松」のクライマックスは素晴らしい盛り上がり。ほっとするような優しさの「ジャニコロの松」では各楽器のソロは自由に演奏させながらも、次第に自分のペースに引き込んでしまうといった趣でカンテルリのカリスマ性を如実に示した演奏です。
テインパニの猛烈な連打の中、早いテンポでひたすら前へ突き進む「アッピア街道の松」は、テンパニの1音1音がそれぞれ異なった意味を持たせながら叩かせる、とにかく指揮者の非凡な統率力を聞き手に感じさせる演奏で、最後のフェルマータの長さはスヴェトラーノフ盤に次ぐ長さで最後の音が消える前に聴衆の熱狂的な拍手が入ります。

この演奏会のCDは、最初当時のエアチェックから作製したものがASディスクというレーベルで12月25日のライヴとして発売されました。その後ボストン交響楽団の自主製作CDとして
2001年に製作された、12枚組のボックスセットの中にもカンテルリの「ローマの松」が収録されていて、私はこれらは別録音だと思っていましたが、聴き比べてみて、オーボエソロのミスや聴衆のセキの場所から同一録音であることが判明しました。録音状態は当然ながらボストン響保管のオリジナルテープから製作されたCDのが鮮明で、聴いた印象もかなり異なることになりました
(2002.11.09)
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