Introduction
「文庫本の祖、シューマン家」

次回の定演はシューマンの交響曲第3番「ライン」。このところ毎年のように定演候補の最終選考まで残っていながら落選続きだった「ライン」ですが、ここにきてようやく決まりました。
沼響では、ピアノ協奏曲を2回取り上げたことはありますが、シューマンの交響曲は初挑戦。これから手持ちの「ライン」の録音を紹介していこうと思います。

今回はロベルト・シューマンの生まれ育った家庭環境を中心に紹介していきます。

ロベルト・シューマンは、1810年6月8日の夜、旧東ドイツの文化の中心都市ライプツィヒの南東の町ツヴィッカウに生まれています。メンデルスゾーンはその前年、リストはその翌年、同年にはショパンも生まれています。

シューマン家は祖父の代までチューリンゲン州のプロテスタントの牧師の家系でしたが、
ロベルトの父アウグストは14歳で商人の資格を取り、ライプツィヒ大学で文学を学んだ後にロンネブルクで書籍商を開業しています。ちなみにシューマンという姓はドイツ語圏では「靴屋」という意味だそうです。

アウグストは、その地で外科医の娘ヨハンナ・クリスティネーと知り合い結婚、4男1女の5人の子どもに恵まれています。ロベルトは末っ子でした。

1808年に父アウグストは、ツヴィッカウで兄と共同経営の書店「シューマン兄弟社」を立ち上げています。商売は順調に発展し、やがてドイツでも有数の書籍商となり出版事業も始め、文学系の週刊誌や自ら記した小説や辞典類などを発刊しています。

ここで注目されるのは、世界の古典文学を中心とした文庫本を発行していることです。

名作を集めた文庫本は今では珍しくありませんが、日本の文庫本のさきがけである冨山房の「袖珍名著文庫」や「岩波文庫」のモデルとなったライプツィヒのレクラム文庫の創刊が1867年、それより古いタウフニッツ叢書が1848年ですから、ロベルト・シューマンの父アウグストは、世界の文庫本の祖とも言えそうです。

ロベルトの兄弟のうち姉は早くに亡くなり、上の兄二人は家業の書籍商を継ぎ、三番目の兄は出版業を営みました。


このように幼い頃から書物に囲まれた環境に育ったロベルトは、自然と文学に親しむようになります。シューマン兄弟社の発行した「世界著名人辞典」には僅か14歳だったロベルトも執筆者として加わっています。

一方音楽にも才を示し、ツヴィッカウの聖マリア教会のオルガニスト、クンチュに音楽の基礎を学び、12歳の時にはオラトリオ「詩篇150編」、「序曲と合唱」を作曲しています。

若きロベルトの心は、知的な家庭環境の中で文学と音楽の間を振り子のように揺れ動いていったようです。そして詩作に没頭するかたわらピアノにも夢中になっています。

ツヴィッカウでは14歳にしてピアニストとして知られた存在になってきましたが、ピアノはほとんど独学でした。この時にピアニストとしての基礎的な教育を受けなかったことで後に苦労することになります。

ロベルトが音楽の道へ進むことに協力的だった父アウグストが1828年に亡くなると、将来のことを心配した母の進めで、ロベルトはライプツィヒ大学の法科に進みました。
音楽の道を捨てきれなかったロベルトは、ライプツィヒでピアノ教師フリードリヒ・ヴィークにピアノを習い始め、ここで将来の妻となるフリードリヒの娘クララと出会うことになります。

本格的にピアニストとしての修練を開始したシューマンは、パガニーニの演奏を聴いた影響もあり、ピアノのヴィルトォーゾを目指して猛烈な練習を始めます。
このとき自らピアノ練習機を考案したりしていますが、これが漫画「巨人の星」に出てくる大リーグ養成ギブスのようなものだったらしく、度を越えた猛烈な練習と、ピアノを始めた頃に基礎練習が不十分だったこともあり、指を痛めてしまいました。

結局ピアニストへの道を断念せざるを得なくなり、作曲と音楽評論の道に専念するようになります。
(2011.03.03)