今回は、ラフマニノフの交響曲第2番の歴史的な位置づけと内容の簡単な紹介、そしてカットについてです。 18世紀に確立した交響曲は、その後のロマン主義の流れと管楽器の著しい改良によって巨大化の道を歩みます。マーラーやブルックナーにより一時間を越える長大な交響曲が作曲され、1904年にはリヒャルト・シュトラウスの家庭交響曲、1906年には数百人の演奏者を必要とするマーラーの交響曲第8番が作曲されています。 その一方で15人の奏者で演奏されるシェーンベルクの室内交響曲第1番が作曲されるなど、ラフマニノフの交響曲第2番が作曲された1906年前後は、交響曲という形式そのものが爛熟から衰退へ向かう大きな転換期でした。 ラフマニノフの交響曲第2番は大編成のオケ、一時間を越える演奏時間を要するとはいえ、スタイルとしては西欧的で古典的な均衡の中に民族的語法を駆使して交響曲を書き上げたチャイコフスキーを目標とした保守的な曲です。中には時代遅れのマンモスのような曲と言う人もいます。 曲は伝統的な4つの楽章から構成されていますが、通常第3楽章に置かれるスケルツォ楽章がベートーヴェンの交響曲第9番と同じ第2楽章に配されています。 3管の大きな編成、ロシア風の厚いオーケストレーション、そして曲の冒頭からグレゴリオ聖歌の「怒りの日」の旋律が、形を変えながら主要動機として曲のいたるところに使用されています。 さらにラフマニノフが幼い頃暮らした故郷ノブゴロドの教会の鐘を模した音型が、曲の根底に脈々と流れながら曲は進行していきます。 この交響曲第2番は陰の象徴としての「怒りの日」、陽の象徴の「鐘の音」が交錯しながら展開していくように私は思えます。ただし、曲の途中で突如として曲想ががらりと変化する場があり、このラフマニノフ特有の唐突な変化は正直なところ私には未だ理解出来ない部分です。 第1楽章 ラルゴ−アレグロ・モデラート ホ短調 ソナタ形式 序奏部はグレゴリオ聖歌「怒りの日」の断片で開始され、ふたつの主要主題が自由に絡み合いながら展開していく。 第2楽章 アレグロ・モルト イ短調 複合三部形式 スケルツォ楽章、冒頭のホルン動機は「怒りの日」の断片。 第3楽章 アダージョ イ長調 重厚にして甘美な歌謡楽章。冒頭の旋律とスラブ風のクラリネットソロに続く中間部では第1楽章序奏の動機の変形が現れる。以上の三つの素材が絡み合いながら進んでいく。 第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ ホ長調 イタリアの舞曲タランテラによる第一主題、弦楽器による歌謡的な主題、第3楽章までの各主題が断片的に回想され複雑に変形しながらクライマックスを築いていく。 交響曲第2番の演奏時間は一時間を越え、ラフマニノフの器楽作品としては最長の曲です。 ところが1919年夏に、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督であったソコロフがラフマニノフの同意を得た上で短縮版を作り1928年に録音をおこないました。 さらにニューヨークフィルの音楽監督だったストランスキーも1922年に独自の短縮版を作製しています。このカットもラフマニノフ自身が認めたものとされ、以後はカットして演奏するのが一般的になってしまいました。 組曲「展覧会の絵」のクーゼヴィツキーのライヴ録音や、メンゲルベルクの指揮したチャイコフスキーの交響曲第5番の録音のように、古いタイプの指揮者の録音には、信じられないカットがされている場合があります。これは長大な曲に慣れていなかった当時の聴衆の理解を得る為には仕方がないことだったようです。 ラフマニノフと親しかったオーマンディーの証言によると、ラフマニノフが認めたカットは当時のやむをえぬ事情でカットしたもので、ラフマニノフ自身としては非常に不本意だったそうです。オーマンディがラフマニノフにカットの是非を問うたところ、ラフマニノフの認めたカットは第一楽章の第1主題が始まる前の2小節だけだったということです。 しかし現実にはオーマンディー自身もステレオ期に入ってもカット版で録音しています。結局交響曲第2番のカットの問題は20世紀末まで尾を引くことになりました。 (2006.02.21) |