デュリュフレの生涯、そして少年期のことなど
今回はモーリス・デュリュフレの生い立ちと少年期のエピソードなど。

そして生涯を年表風に・・・・


モーリス・デュリュフレは、ジャンヌ・ダルクの終焉の地で知られる北フランスの町、ルーアンの南10キロのあたり、現在人口2万人弱の都市ルーヴェに男3人兄弟の末っ子として生まれました。

ルーヴェはセーヌ川の支流ウール川と運河が市街地を流れ、石畳に中世的な雰囲気の残る繊維工業を主とする町で、かつてはこの運河が商業取引や交通に大きな役割を果たしていました。

ルーヴェには1616年に建てられた古い修道院ほか、中心部にはノートルダム教会があり、一家はこの教会のミサに通っていました。
https://ssl.panoramio.com/photo/3282045



デュリュフレ家は町の北東部の2階建ての長屋に住み、父は建築業を営んでいました。

両親は控えめな性格で、その日常生活は街の周辺に限られ、遠出することもなく慎ましい日々を送っていたようです。



職人の父を中心とした、敬虔なクリスチャンの堅実な一家の姿が思い浮かびます。

末っ子のモーリスは、水泳や釣りに興じ、自転車を乗り回す活発な子供だったようです。

両親は特に音楽の専門教育を受けたわけではありませんが、父はハルモニウム(簡単なオルガン)を弾くことがあったようです。
アマチュアの合唱団や楽団にも所属していました。

この頃、フランスのソレムの修道院を中心としてグレゴリオ聖歌の復興運動が起こり、フランス各地の教会が大きな影響を受けています。

モーリスは教会のミサから帰ると、家にある楽器で耳にしたグレゴリオ聖歌を演奏したりしていました。

教会のミサで歌われるグレゴリオ聖歌が、自然と幼いモーリスの音楽の素養として身についていったことが想像できます。


5歳の時にモーリスは、ルーヴェで最も有名なピアノ教師Ms.Poussinのもとで
ピアノとソルフェージュを習い始めます。

またクラリネットも習い始め、切手収集やスケッチ、写真などにも興味を示しています。

デュリュフレの成績は、算数は苦手ながら絵画は優秀。
当時のフランスの小学校には音楽の授業はなかったようです。


9歳の時、両親はより高度な教育を受ける必要性を感じ、大都市ルーアンの教会合唱学校でユリウス・ヘリング(Jules Helinng 1869−1926)のもとへモーリスを通わせ,歌唱、オルガン、ピアノを学ばせます。

ヘリングはパリ音楽院の名高いオルガン奏者ギルマンの弟子でした。
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/6119/museum/guilmant/


何か月かのレッスンの後、モーリスはヘリングの勧めで学校の聖歌隊で歌い始めます。

1918年、モーリスが16歳の時に「スペインかぜ」が世界中で大流行、
ルーアンでも200人以上の死者を出しています。


この時、聖歌隊に所属していた少年たちは予防のため頭を丸刈りにされました。
モーリスは頭皮が細菌に感染し、まだら禿になってしまい、以後カツラを使用することになってしまいました。

この頃のモーリスは他の仲間がショートパンツを穿いている中で、ダブダブの
ニッカボッカをいつもはいていて、ハゲを気にして内気であったけれども、
食事の時にはピエロのように人を笑わせる一面もあった、と聖歌隊仲間の証言
が残っています。

ルーアンのサン・トウアン教会には、1890年にアリスティッド・カヴァ
エ・コル(Aristide Cavaillé-Coll)が修復した名高いオルガンがあり、
ルーヴェとルーアンの教会で接したグレゴリオ聖歌とオルガン演奏が、その
後のモーリスの音楽家の道に大きな影響を与えることになりました。


以下、デュリュフレの生涯


1902年1月 北フランスのノルマンディー地方の町、ルーヴェに男3人兄弟の末っ子とし       て生まれる。父は建築業。 

1907年(5歳)
        ルーヴェで最も有名なピアノ教師Ms.Poussinにピアノとソルフェージュ
        を師事初のピアノリサイタル。
        
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「ルーアン聖歌隊時代」

1910年(8歳)
      ルーアン教会合唱学校でユリウス・ヘリングにオルガン、ピアノ、音楽理論を     学ぶ。

1914〜1917年

      第一次世界大戦
     
1918年(16歳)
      スペインかぜが世界中で大流行
      予防のため頭を刈られたモーリスは、頭皮が細菌に感染し、まだら禿になってし     まい、以後カツラを使用することになる。


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「パリ音楽院時代」


1919年 (17歳)
    パリでオルガニストのシャルル・トゥルヌミルとルイ・ヴィエルヌに学ぶ。

1920年 (18歳)パリ音楽院に入学。
     オルガンをサン=サーンスの弟子だったユジェーヌ・ジグーに、作曲を「魔法使い    の弟子」で有名なポール・デユカスに学ぶ。


1922年 (20歳)
       オルガン(ジグーのクラス)でプルミエ・プリ(一等賞)

1924年 (22歳)
        和声(ジャン・ギャロンのクラス)プルミエ・プリ
        対位法とフーガ(G.カサドシュのクラス)でプルミエ・プリ

1926年 (24歳)
       伴奏法(C.A.エスタイルのクラス)でプルミエ・プリ。

1927年 (25歳)、
       オルガン奏者としてノートルダム寺院でルイ・ヴィエルヌの助手となる。

1928年 (26歳)
       作曲法(P.デュカスのクラス)でプルミエ・プリ

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「オルガン奏者として」

1929年  (27歳)
      ヴィエルヌの助手としてパリ・ノートルダム寺院のオルガニスト
      (1931年まで)
          演奏で「パリ・オルガンの友」賞を授与。

1930年 (28歳)
       パリのサンテティエンヌ・デュ・モン教会の正オルガニスト
      (1975年まで)
       「前奏曲、アダージョと「来たれ創り主なる聖霊」によるコラール変奏曲(作     品番号4)」で「パリ・オルガンの友」作曲賞を授与。


1939年 (37歳)   

9月 第二次世界大戦勃発

      パリ音楽院管弦楽団の専属オルガニストも兼ねる。
      プーランクの「オルガンとティンパニのための協奏曲」初演
           (ミュンシュの指揮)

1940年 (38歳)

      フランス降伏

1942年 (39歳)

      パリ音楽院でオルガニストのマルセル・デュプレの助手

1943年  (40歳)

      パリ音楽院(和声学)の教授。(1969年まで)

1944年  (41歳)
     8月 パリ解放
     フランス政府より「レクイエム」委嘱される。

1947年  (44歳)
     
     9月「レクイエム」完成    第1稿 大編成オーケストラ版 

    11月2日 放送初演
     
    ロジェ・デゾルミエール指揮フランス国立管弦楽団、合唱団
    ルーヴィエのソプラノ、モラーヌのバリトン、
    アンリエット・ピュィ・ロジェのオルガン


    演奏会初演は同年、ポール・パレーの指揮


1948年  (45歳)
    
    レクイエム 第2稿オルガン版、

1950年  (47歳)
 
    レクイエム第1版 デュラン社から出版 

1959年 (56歳)

   「レクイエム」第1稿 初録音

       デュリュフレ指揮ラムルー管弦楽団

       この録音はフランス・ディスク大賞受賞

1961年 (58歳)
    
    レクイエム第3稿
    オルガンと、ハープ、トランペット、ティンパニを伴う弦楽5部室内オーケストラ版


1974年  (71歳)

   「レクイエム」第2稿 録音(初録音か?)
   
    ゲスト指揮セントジョンズ・キングス・カレッジ合唱団

1975年 (72歳)

    夫人とともに高速道路で自動車事故に遭遇。
    一命は取り留めたものの、以後演奏活動から遠ざかる。


1986年 (83歳)

    パリで死去。



「Maurice Duruflé: The Man and His Music」
James E. Frazier著を一部参考にしました。



(2016.08.20)